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聖ピオ10世教皇     St. Pius X. Papa             記念日 8月 21日


 教皇になるには、家柄も財産も必要ではない。ただキリスト信者で資格さえあれば、即ち神学俗学に造詣深く、経験や徳に卓れていれば誰でもなれる。聖会はそう教えているが、ピオ10世の一生はその実例である。
 ピオ10世は北イタリアのリエゼという小さな町に、始め郵便配達夫であり、後に小さな郵便局長となったサルトの長子として生まれ、洗礼の時にはヨゼフと名付けられた。小さいときから同胞の救霊の為に働きたいという憧れをもち、早くからその為の勉強を始めたが、家が貧乏なのでそれはなかなか容易なことでなく、カステルフランコにある中学校までの遠い路を、裸足で通学しなければならないこともしばしばあった。両親にはまだ養わなければならない息子や娘があったから、ヨゼフは司祭になる決心をした時、神学校の給費生になる特典を受けるよう、人に尽力してもらい、成績が抜群であった為に、首尾よくそれを許された。
 長男の彼がめでたく司祭になって、始めてミサ聖祭を献げた時、母親マルガレーテ・サルトの喜びは一方ではなかった。彼女が愛するヨゼフの為に忍んで来た数々の苦労は空しくなかったからである。
 彼の最初に赴任した所はトンボロという村で、そこの助任司祭になった彼は、特に少年等の為に意を用い、その慈父ともなれば恩師ともなった。その大部分は全く読み書きが出来なかったからである。
 「しかしお礼はどういう風にしたらよいでしょうか?」ある人がそう訊くと、彼は答えて言った。
 「この村の人には、何かというとすぐ呪いの言葉を吐く悪い癖がありますが、それをやめて下さい。私にはそれが何よりも有難いお礼です」
 目上の主任司祭は、もう年寄りで気弱な人であったが彼はその人に9年の間従順に仕え、助任司祭として縁の下の力持ちのような仕事でも何でも厭わずにした。当時は誰も彼にもっと高い地位を与えようと思わなかったし彼自身もそうしたものを得ようと努めなかった。しかしその偉大な才能が認められ、サルザノの主任司祭に任ぜられた。サルザノの人々は、彼が卑賤の出であるというのであまり信用せず之を迎えた。けれども彼の才能及びそのすべての人、わけても貧民に対する愛と犠牲を厭わぬ親切とは、やがてあらゆる人の心を引きつけ、9年後その司教区の主事兼トレヴィーソ神学校指導司祭に任せられた時には、誰一人別れを悲しまぬ者がないほどであった。
 彼はまた9年たつと、レオ13世教皇からマントワの司教に挙げられ、更にまた9年たつと遂にヴェネチアの総大司教兼枢機卿に任ぜられた。その折り彼は平に辞退しようとしたのであるが、ランボーラ枢機卿に「これは既に辞退した人が一人あるので、またお受けしないとなったら、教皇もどれほど遺憾に思われるか知れない」と注意されると、素直に教皇の御意に添うこととしたのであった。
 彼はそれからイタリア全国でも重要教区の一つである、その司教区の改革に倦まずたゆまず努力し、そこでまた人心を収攬することに成功し、従来カトリックを敵視していた政府とさえ友好関係を結ぶことが出来た。しかしながら彼を最も愛したのは貧しい人達であった。彼は自分の必要欠くべからざるものさえ彼等に施してしまい、為に彼の家事を見てくれる妹たちが困ることも度々あったのである。
 その内にレオ13世教皇が永眠されたので、サルト枢機卿も新教皇選挙の為ローマに上京しなければならなかった。彼はそれがすぐ済んで、間もなく帰ることが出来ると思い、出発の際には従者に往復切符を買わせた。けれどもその戻りの方は要らなくなってしまった。なぜなら彼は最早ヴェネチアに帰らずに、選挙者の圧倒的多数の希望に従い、教皇の重責を双肩に担うこととなったからである。教皇としての名前には、その前々代のピオという名前を選んだ。
 4億の信徒を擁するキリストの教会を導いて、科学の進歩を誇る世の不信仰不道徳の嵐を切り抜けさせるのは、決して生易しいことではない。ピオ10世の教皇としての特筆すべき事跡には、信仰を深めるいろいろな運動のほかに、わけても回勅を発して御聖体を頻繁に且つ立派に拝領させるようにした改革がある。この措置に対しては何十万、また何十万という人が彼に感謝して来たし、また天国に入ってからも永遠に感謝してやまぬであろう。かれが標語として選んだのは、「一切をキリストにおいて革新する」という聖パウロの言葉であった。
 彼の晩年、1914年8月2日、突如第一次世界大戦が勃発した。彼は平和回復のために努力したが、徒労に終わった。そしてそれから三週間目、1914年8月20日を一期として世を去ったのである。
 それから三代目の後継者ピオ12世教皇が、聖ペトロ大聖堂の前で。多数信徒参集の下に、彼を福者の列に加えられたのは、1951年6月15日のことであった。そして1954年には聖ピオ10世教皇として列聖されたのである。

教訓
 教皇はいずれも皆、聖会から列福または列聖されるとは限らない、しかし教皇はいずれも皆、信仰道徳について全信徒の信ずべき事を定める時には、謬ることがない。我等聖会の子たる者は、天主が近代において、ただ信ずるべきことを謬りなく定めたのみならず、信者にも未信者にも真理と完徳との灯台と仰がれるような人々を、教皇として聖会に与え給うたことを喜び、且つ手に感謝しよう。